神戸地方裁判所 昭和34年(わ)1406号 判決 1960年6月14日
被告人 木津力松
大一三・一二・一七生 日共書記
主文
本件公訴を棄却する。
理由
本件公訴事実は、
「被告人は、日本人であるが、昭和二八年一二月頃から、同三四年一二月初旬頃までの間において、本邦外の地域(中華人民共和国)におもむく意図をもつて、有効な旅券に出国の証印を受けないで、(船舶又は航空機に便乗して)本邦(日本国)より出国したものである。」
というのである。(カツコ内は第二、三回公判期日に釈明補充したもの。)
公訴事実は、訴因を明示して記載しなければならず、訴因を明示するにはできる限り日時、場所及び方法をもつて、罪となるべき事実を特定してこれをしなければならない。(刑訴法第二五六条第三項)が、それはまづ公平な裁判所の裁判の担保として、審判の対象となる犯罪を構成する具体的事実の同一性と単一性を限界ずけ、被告人の防禦権を充分行使させ、ついで確定判決の効力(既判力)の及ぶ範囲を明確にし、同一ないし類似の犯罪事実により重ねて起訴する危険から、被告人を保護しようとするものにほかならない(憲法第三七条、第三九条)。したがつて、法が公訴事実の特定を求めているのは、特定のための特定でないことはいうまでもないが、それが刑事裁判手続のいわば出発点として、被告人の権利に重大な影響を及ぼすものであることをかえりみれば、たんに訴訟法的な要請や訴訟技術的な理由を充せば足りるものと言い去るべきではなく、少くとも、被告人の防禦権の否定に至らぬ程度に、当該公訴事実が、具体的に他の社会的事実から、はつきり区別し得る程度に客観的特色をもつて特定される必要があるというべきであろう。
これを本件公訴事実についてみると、「中華人民共和国」へおもむく意図で、出国の方法は、「船舶又は航空機に便乗して、その場所は、「日本国」から、出国したというのであり、出国の時期は「昭和二八年一二月頃から、同三四年一二月初旬頃までの間」の一時点であるというのにとどまつているのであるから、この公訴事実には、出入国管理令第六〇条第二項、第七一条に該当する具体的事実は、ほとんど表示されておらず、その構成要件自体の抽象的表示に終始しているにほぼ等しいとみられる。したがつてこのような表示だけでは、そこに示されている訴因のみならず、その社会的具体的事実である公訴事実も、右の期間内に行はれる蓋然性があると通常考えられる他の同種行為から区別限定し、一回的な歴史的事実であることを識別し得るに足りる具体性に欠け、審判の対象になり得るだけの、また被告人の防禦権を侵害しないだけの特定があるとはいえない。
検察官は、第二、三回公判期日に、本件起訴は、被告人が昭和三四年一二月、日本に帰国したことにより、これに直結する出国の事実について起訴したものであり、また前示期間内に被告人が本件で起訴されている以外の密出国をした事実はない旨釈明したが、それが帰国の原因となつた出国を起訴する意思であり、また二回以上の出国の蓋然性があるとしても最後の出国を起訴する意思を表明したものであると解しても、前者の特定方法は、きわめて観念的で、なんらの具体性がなくかつ、客観性に乏しく、後者については、かりに後日右期間内に二度以上出国したことが判明し、又は右期間内の一時点を明確にしうる日時が判明し、起訴要件を充す場合にも改めてこれを起訴しない趣旨であるとしても、客観的な特定がないことにかわりはなく、右により明らかになつた出国が最後の出国でない限り、さらにこれと異る日時を特定して起訴された場合には免訴の裁判をなし得ない(昭和三五年二月二六日、東京地方裁判所刑事第八部判決理由三(2)(ホ)参照)ばかりでなく、かような長期間内の一時点を行為の時とする公訴事実をそのまゝ肯定して、実体審理に進み、強いて被告人からの反証による防禦を予定し、その審理中に反証が提出されないことから、右起訴にかゝる期間中のいずれかの時点で出国したものであると断定してしまうことは、間接的に、被告人に自白を強要すると同様の結果をもたらすことにもなり(すなわち、被告人が最後の出国に限定して反証を挙げようとすれば、被告人自ら出国の日時を明らかにしたうえ争はざるを得ない破目に追いやることになり、それ以外の事実を主張、立証し、最後の出国と異る事実が判明すれば、被告人自らが明らかにした事実に基き、その事実自体が起訴要件を具備する限り、新たな起訴、審判の対象となるであろう。)、結局被告人の防禦権を侵害することになり違法であるといわざるを得ない。
よつて本件公訴は、その公訴事実、訴因が特定せず、公訴提起の手続がその規定に違反したため無効であるときにあたるものと考えられるから、その余の主張を判断するまでもなく失当として、刑事訴訟法第三三八条第四号によりこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判官 田原潔)